

こんにちは。今回は『呪術廻戦』の中でも特に異彩を放つ「呪胎九相図」について深堀りします。ただの敵役から、誰よりも愛深い「お兄ちゃん」へと変貌を遂げた脹相。彼の背景には、実は数百年にわたる日本の仏教美術の歴史が隠されていました。少しアカデミックな視点から、彼が命を懸けて守ろうとしたものの正体に迫ってみましょう。
作品概要:呪術廻戦と呪胎九相図
本記事では、芥見下々先生による大人気ダークファンタジー『呪術廻戦』に登場する特級呪物「呪胎九相図」に焦点を当てます。人間の負の感情から生まれる「呪い」をテーマにした本作において、彼らは「加茂憲倫」という最悪の呪術師によって、呪霊と人間の間に生み出された悲劇的な存在です。
特に長男である脹相(ちょうそう)は、当初は敵として登場しながらも、主人公・虎杖悠仁との「記憶」をきっかけに、作中屈指の「お兄ちゃん」キャラとして愛されるようになりました。本稿では、その背景にある仏教美術「九相図」の意味と、彼が辿った数奇な運命を解説します。
- 原作:芥見下々(集英社「週刊少年ジャンプ」連載)
- 出版社:集英社
- アニメーション制作:MAPPA
第I部:仏教美術としての「九相図」の歴史
アニメや漫画で脹相たちのモチーフとなった「九相図(くそうず)」。これは単なる創作ではなく、約14世紀から続く日本仏教美術の重要なテーマです。まずは、その本来の意味を探っていきましょう。
1. 九相図とは何か?
九相図とは、屋外に打ち捨てられた死体が腐敗し、獣に食われ、最終的に白骨化して土に還るまでの経過を9つの段階(相)で描いた絵画のことです。
これはグロテスクさを楽しむものではなく、仏教の修行法「不浄観(ふじょうかん)」のために用いられました。修行僧たちは、死体が朽ちていく様子を直視することで、「現世の肉体は美しく見えても、一皮むけば不浄なものである」と骨身に刻み、異性への執着や性欲といった煩悩を断ち切ろうとしたのです。
2. 死へ向かう9つの段階
一般的に描かれる9つの段階と、その意味をカード形式でまとめました。
1. 脹相(ちょうそう)
死後、体内のガスにより遺体が内部から膨れ上がる段階。生前の面影が歪み、崩壊の始まりを告げます。
2. 壊相(えそう)
ガスの圧力に耐えきれず皮膚が破れ、肉体が壊れ始める段階。人の形という「器」の脆さを示します。
3. 血塗相(けちずそう)
溶解した脂肪や血液が体外へ滲み出し、全身が不浄な液体にまみれる段階。視覚的な嫌悪感を誘います。
4. 膿爛相(のうらんそう)
組織の液状化が進み、死体の輪郭が崩れます。ウジなどが湧き始める段階です。
5. 青瘀相(しょうおそう)
皮膚が暗い青黒色に変色します。生気(赤み)が完全に失われた状態です。
6. 噉相(たんそう)
鳥や獣が死体に群がり、肉を啄む段階。人間も自然界の食物連鎖の一部であることを示します。
7. 散相(さんそう)
動物たちによって引き裂かれ、手足や頭部がバラバラに散らばった状態です。
8. 骨相(こつそう)
肉も皮もなくなり、白い骨だけが残ります。死の究極の姿であり、空虚さの象徴です。
9. 焼相(しょうそう)
骨さえも焼き尽くされ、灰となって消滅します。完全な「無」への回帰です。

3. 九相図のモデルとなった美女たち
九相図のモデルには、歴史上の絶世の美女たちが選ばれることが多くありました。男性僧侶の煩悩を断つためですが、そこには彼女たち自身の強い意志の伝説も残っています。
- 檀林皇后(橘嘉智子):平安時代の皇后。「自分の死体を埋葬せず路傍に捨て、獣に食わせて無常の理を人々に示せ」という衝撃的な遺言を残しました。
- 小野小町:世界三大美女の一人。死後は野晒しの髑髏となり、目からススキが生えたという「髑髏小町」の伝説が有名です。

第II部:『呪術廻戦』における再構築と逆転の発想
『呪術廻戦』では、この古典的な題材が見事にキャラクター化されています。特筆すべきは、元ネタの「死へのプロセス」を「人間から遠ざかるプロセス」として逆転させている点です。
キャラクターと元ネタの比較
| 段階(番号) | 名前 | 作中での特徴・デザイン |
|---|---|---|
| 1番(長男) | 脹相 | 最も人間に近い姿。鼻筋に模様がある和装の青年。血液を操る能力を持つ。 |
| 2番(次男) | 壊相 | 背中に異形の顔を持つ筋肉質の男。奇抜な服装をしており、血液で相手を蝕む。 |
| 3番(三男) | 血塗 | 最も異形(呪霊)に近い姿。口が大きく、人間離れした外見をしている。 |
本来の九相図では番号が進むほど死体(人間としての崩壊)に近づきますが、作中では逆に、1番の脹相が最も人間らしく、弟になるにつれて異形の姿になっています。これは美術史的な背景を、キャラクターデザインのロジックとして巧みに昇華させた設定と言えるでしょう。
第III部:脹相(ちょうそう)研究 ― 愛と血の哲学
ここからは、読者から熱狂的に支持される長男・脹相について深堀りします。彼は呪霊と人間のハーフという特異な存在ですが、その行動原理は一貫して「弟への愛」でした。
1. 赤血操術(せっけつそうじゅつ)の技
加茂家相伝の術式ですが、脹相は特異体質により呪力を血液に変換できるため、失血のリスクなしに強力な技を連発できます。
- 穿血(せんけつ)
- 血液を極限まで圧縮し、音速で撃ち出す奥義。レーザービームのような貫通力を持つ遠距離攻撃です。
- 超新星(ちょうしんせい)
- 脹相のオリジナル技。展開した血液を一気に解放し、全方位に散弾のように撃ち放ちます。「弟たちのために」考え抜き、隙を消すために編み出されました。
- 赤鱗躍動(せきりんやくどう)
- 体温や脈拍を操作して身体能力を爆発的に向上させるドーピング技。近接戦闘もこなせる万能さを支えます。
2. 「存在しない記憶」と兄弟の絆
物語の当初、脹相は弟たちを殺した虎杖悠仁を敵として狙っていました。しかし、トドメを刺そうとした瞬間、彼の脳内に「虎杖を含めた兄弟たちと食卓を囲む平和な記憶」が溢れ出します。
これは虎杖の術式ではなく、脹相自身の「血の繋がった弟の異変(死)を感じ取る能力」によるものでした。実は、彼らを生み出した加茂憲倫(羂索)が虎杖の母の肉体も乗っ取っていたため、二人は正真正銘の血縁関係にあったのです。
この事実を悟った瞬間、脹相の「敵意」は強烈な「兄弟愛」へと反転しました。
3. 「お兄ちゃん」の哲学
脹相の魅力は、そのあまりに真っ直ぐな責任感にあります。彼が語った言葉には、彼なりの深い哲学が宿っています。
それでも弟の前を歩き続けなければならん。
だから俺は強いんだ」
第IV部:不浄から聖なるものへ ― 物語の結末
人外魔境新宿決戦において、脹相の物語は終着点を迎えました。宿儺の猛火が虎杖たちを襲った際、彼は迷わず自らの命を燃やして弟を守り抜きます。
九相図の最後は「焼相(焼失)」ですが、脹相はただ朽ちて焼かれたのではありません。弟の未来を繋ぐために、自らの意志で燃え尽きたのです。
最期の瞬間、これまで頑なに「兄」と呼んでこなかった虎杖から「ありがとう 兄貴」という言葉を受け取った脹相は、満足げに微笑んで消滅しました。
結論:愛による昇華
元ネタである九相図は、肉体の不浄と無常を説く冷徹な絵画でした。しかし、『呪術廻戦』における脹相は、呪われた出自を持ちながらも、その生き様によって存在を聖なるものへと昇華させました。
「不浄の絵画」として生まれた彼は、最期に最も美しい「家族の愛」を完成させたと言えるでしょう。彼は「手本がない」と嘆きましたが、その背中は間違いなく、最高のお兄ちゃんの手本として私たちの記憶に残ったのです。


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